北京に来た西洋人、朝鮮に遭遇する。
베이징에 온 서양인, 조선과 마주치다
1871年6月1日、米軍艦隊は朝鮮の許可を受けず、江華海峡を測量します。
これに対し朝鮮は米軍を攻撃し、交戦が起こります。
アメリカは奇襲攻撃を受けたことに抗議し、朝鮮は不法進入に対する正当な対処であると主張します。アメリカの仕返しから撤退まで(6月10日~7月3日)両側は死傷者を含む交戦を行い、朝鮮はこの戦争から勝利したと思います。
交戦の事後処理のため、朝鮮は清国に人を送ります。清の皇帝に朝鮮の代わりにアメリカを呼び覚まし、もう朝鮮に近づかないように命令してくれるよう頼むためでした。
清はイギリスとのアヘン戦争に敗れ、1842年に南京条約を締結します。第2次アヘン戦争の時、皇帝が北京を捨てて他の都市に逃げることもありました。天朝の権威はすでに西洋に通用しない時代でした。ですから、朝鮮のこのような頼みは、世界の変化を読めなかった結果でした。
当時、朝鮮から北京に送られた人の中に李應浚(イ・ウンジュン)という人がいます。面白いことは彼とその連れの写真が残っています。この写真は北京に滞在したイギリス人であるジョン・トンプソンが撮影したものです。
これより少し前の1863年、通信使として北京に訪れた李恒億(イ・ハンオク)とその連れはロシアの宿に向かい、いくつかの写真を残します。これが朝鮮最初の写真として知られています。
アヘン戦争の後、開放された北京には様々な西洋人が集まりましたが、朝鮮人も西洋人と出会い、色々な跡を残しました。
北京で朝鮮人に会った西洋人は彼らをどう思ったのでしょうか。
私は彼らがヨーロッパ人の特徴を持っていることに大いに驚きました。
一点の汚れもない服を着ていて、頭からつま先まですべてが白だった。
<トムソンの写真集>
同じ時期、ニコラス・デニスは朝鮮人の欠点として「飽くなき好奇心」を持っていると評したこともあります。
彼らが出会った朝鮮人は大体、通信使の一員だったり、役人のように清国を頻繁に出入りする人でした。彼らの任務は国際情勢に関する情報収集であって、彼らの中には広い世界に対する好奇心に満ちた人もいました。
吳慶錫(オ・ギョンソク)は朝鮮末期の代表的な開港家の一人です。彼も北京を行き来しながら西洋人に出会い、写真を残しました。
この写真の中には、彼が出会った西洋人の名前が刻まれています。「メイフィリップ」、イギリス人メイヤーズです。彼は1873年から北京でイギリス公使館の中国語書記官として働きました。それで翌年、清国を訪問した吳慶錫に会うことができました。
会うことは簡単ではありません。
厳しい鎖国の雰囲気で、朝鮮人が西洋人に会うことは危険なことでした。しかし、吳慶錫は開港に信念を持っていたので、密かにメイヤーズに会います。
西洋勢力の東漸する転換期に清を訪れた朝鮮人は国際情勢に詳しかった。そのため、西洋の力が日ごとに大きくなる中、朝鮮の安易な認識と無力な対応を目睹し、挫折感に陥ったこともあります。
このような彼の考えはマイヤーズの記録から見られます。
朝鮮の民衆は彼らの過ちで苦しむことになるでしょう。あなたたちが朝鮮に来るのなら、武力とともに朝鮮にとどまることを決断しなければなりません。
マイヤーズは吳慶錫のこのような考えを「奇妙な希望だ」と表現します。朝鮮が隠遁体制を放棄するようにヨーロッパ列強が武力を伴うことを望む朝鮮人、奇妙ではないでしょうか。
時間が流れ、1881年末、アメリカ全権代理のロバート・シュフェルトは、朝鮮の領選使である金允植から朝鮮が条約締結を望んでいる事実を正式に通知されます。
清は米朝間の条約に「朝鮮が清の属国」という内容を追加しろと朝鮮に圧力をかけました。シュフェルトは、清と朝鮮の独特な関係を認める一方、主権国家間の平等な関係を前提にする条約を属国と締結するのは格に合わないことだと考え、受け入れませんでした。
そこでシュフェルトは金弘集に、条約に先立ち、朝鮮が独立国であることを示す国旗掲揚を提案します。この前まで朝鮮には国旗というものがありませんでした。国旗の使用は、朝鮮が近代西洋の国際法秩序の中に編入されることを意味する一つの象徴でもあります。
朝鮮人に会ったこともないウィリアム・グリフィスは、朝鮮を「隠者の国」、「隠遁の国」と表現しました。しかし、直接朝鮮人と対面した西洋人の話は違いました。
地質学者リヒトホーフェンは北東アジアを回り、多くの人に会いました。彼は朝鮮人について、朝鮮人は中国人や日本人よりも好奇心が強く、西洋に門戸を開放していないにもかかわらず、外国の知識を学ぼうとしたといいます。先に紹介したジョン・トンプソンやニコラス・デニスなどと同じでした。
北京に来た西洋人が遭遇した隠遁の国から来た朝鮮人は、開かれた心で世界を学ぼうとする人だったのです。
これに対し朝鮮は米軍を攻撃し、交戦が起こります。
アメリカは奇襲攻撃を受けたことに抗議し、朝鮮は不法進入に対する正当な対処であると主張します。アメリカの仕返しから撤退まで(6月10日~7月3日)両側は死傷者を含む交戦を行い、朝鮮はこの戦争から勝利したと思います。
交戦の事後処理のため、朝鮮は清国に人を送ります。清の皇帝に朝鮮の代わりにアメリカを呼び覚まし、もう朝鮮に近づかないように命令してくれるよう頼むためでした。
清はイギリスとのアヘン戦争に敗れ、1842年に南京条約を締結します。第2次アヘン戦争の時、皇帝が北京を捨てて他の都市に逃げることもありました。天朝の権威はすでに西洋に通用しない時代でした。ですから、朝鮮のこのような頼みは、世界の変化を読めなかった結果でした。
当時、朝鮮から北京に送られた人の中に李應浚(イ・ウンジュン)という人がいます。面白いことは彼とその連れの写真が残っています。この写真は北京に滞在したイギリス人であるジョン・トンプソンが撮影したものです。
これより少し前の1863年、通信使として北京に訪れた李恒億(イ・ハンオク)とその連れはロシアの宿に向かい、いくつかの写真を残します。これが朝鮮最初の写真として知られています。
アヘン戦争の後、開放された北京には様々な西洋人が集まりましたが、朝鮮人も西洋人と出会い、色々な跡を残しました。
北京で朝鮮人に会った西洋人は彼らをどう思ったのでしょうか。
私は彼らがヨーロッパ人の特徴を持っていることに大いに驚きました。
一点の汚れもない服を着ていて、頭からつま先まですべてが白だった。
<トムソンの写真集>
同じ時期、ニコラス・デニスは朝鮮人の欠点として「飽くなき好奇心」を持っていると評したこともあります。
彼らが出会った朝鮮人は大体、通信使の一員だったり、役人のように清国を頻繁に出入りする人でした。彼らの任務は国際情勢に関する情報収集であって、彼らの中には広い世界に対する好奇心に満ちた人もいました。
吳慶錫(オ・ギョンソク)は朝鮮末期の代表的な開港家の一人です。彼も北京を行き来しながら西洋人に出会い、写真を残しました。
この写真の中には、彼が出会った西洋人の名前が刻まれています。「メイフィリップ」、イギリス人メイヤーズです。彼は1873年から北京でイギリス公使館の中国語書記官として働きました。それで翌年、清国を訪問した吳慶錫に会うことができました。
会うことは簡単ではありません。
厳しい鎖国の雰囲気で、朝鮮人が西洋人に会うことは危険なことでした。しかし、吳慶錫は開港に信念を持っていたので、密かにメイヤーズに会います。
西洋勢力の東漸する転換期に清を訪れた朝鮮人は国際情勢に詳しかった。そのため、西洋の力が日ごとに大きくなる中、朝鮮の安易な認識と無力な対応を目睹し、挫折感に陥ったこともあります。
このような彼の考えはマイヤーズの記録から見られます。
朝鮮の民衆は彼らの過ちで苦しむことになるでしょう。あなたたちが朝鮮に来るのなら、武力とともに朝鮮にとどまることを決断しなければなりません。
マイヤーズは吳慶錫のこのような考えを「奇妙な希望だ」と表現します。朝鮮が隠遁体制を放棄するようにヨーロッパ列強が武力を伴うことを望む朝鮮人、奇妙ではないでしょうか。
時間が流れ、1881年末、アメリカ全権代理のロバート・シュフェルトは、朝鮮の領選使である金允植から朝鮮が条約締結を望んでいる事実を正式に通知されます。
清は米朝間の条約に「朝鮮が清の属国」という内容を追加しろと朝鮮に圧力をかけました。シュフェルトは、清と朝鮮の独特な関係を認める一方、主権国家間の平等な関係を前提にする条約を属国と締結するのは格に合わないことだと考え、受け入れませんでした。
そこでシュフェルトは金弘集に、条約に先立ち、朝鮮が独立国であることを示す国旗掲揚を提案します。この前まで朝鮮には国旗というものがありませんでした。国旗の使用は、朝鮮が近代西洋の国際法秩序の中に編入されることを意味する一つの象徴でもあります。
朝鮮人に会ったこともないウィリアム・グリフィスは、朝鮮を「隠者の国」、「隠遁の国」と表現しました。しかし、直接朝鮮人と対面した西洋人の話は違いました。
地質学者リヒトホーフェンは北東アジアを回り、多くの人に会いました。彼は朝鮮人について、朝鮮人は中国人や日本人よりも好奇心が強く、西洋に門戸を開放していないにもかかわらず、外国の知識を学ぼうとしたといいます。先に紹介したジョン・トンプソンやニコラス・デニスなどと同じでした。
北京に来た西洋人が遭遇した隠遁の国から来た朝鮮人は、開かれた心で世界を学ぼうとする人だったのです。