朝鮮の歴史専門外交官、 柳得恭(ユ・ドゥゴン)
조선의 역사 전문 외교관, 유득공
1790年5月27日、清国の首都北京を訪問するために出発した朝鮮通信使。
朝鮮国の通信使は7月10日まで 熱河省に到着し、宴会に参加すること。
鴨緑江を渡る前の6月21日、清国から一通の公文を受け取ります。
本来なら8月13日に北京で開かれる宴会に参加する予定でしたが、乾隆帝の誕生日を迎え熱河省で宴会を開き、各国の通信使を招待する予定なので、朝鮮通信使もこの宴会に参加しようということでした。
一通の公文によって朝鮮通信使は進路を変えることにします。通信使は瀋陽で二組に分けていくことにします。一部は大きい荷物などを大道に沿って延慶に向かわせて、残りは軽い体で熱河省に向かうことにしました。朝鮮通信使としては初めて行く道でした。
その中には実学者の柳得恭がいました。彼は熱河省までの旅程を記録して「熱河紀行詩註」を書きました。初めて行く道だったので、次回来るかもしれない人たちの道しるべとして記録を残しました。
柳得恭は以前にも清国に行ったことがあります。その時、彼は遼東の地を通過しながら渤海に興味を持つようになり、これをきっかけに 「渤海考」を残しました。
柳得恭は渤海が高句麗人によって高句麗の地に建てられた国であると考え、渤海を新羅と合わせて南北の国史として扱うべきだと考えました。渤海の歴史を欠いて、我々民族の歴史は語れないと思ったため、「渤海考」 を書きました。
柳得恭は3回にわたって清国に行き、その時の経験が歴史を執筆するたびにたくさん役に立ちました。1790年の清国訪問は二回目でした。彼は通信使の役目についても自分の意見を記録しました。
〈予記〉によれば、「よくやった!他国の事情を覗き見る」と書いており、これが通信使の役目である。(中略)相互に騙し合うから、いつ頃に目や耳にもなれるのか!
通信使は高低を問わず自分の職に忠実しなければならないのに、私欲を前面に出したり、無責任な態度を示す者がいることについて嘆いた言葉です。
彼は使行時に聞くことや見ることも使行の目的でありながら、情報収集だと思ったので他国の言語にも興味を持ちました。ただ清国に出入りすることにとどまらず、外交官として国に役立つような方策を模索したのです。
彼はこのような考えに基づいて、様々な記録を残しました。熱河省で出会った色々な地域の王や使者について評価した記録から、各地域の緊張関係や権力構造を推測することもできます。また、彼は清国の臣下の中で誰が実権を持っているのかを慎重に探り当てたりもしました。
つまり、彼は今日の海外諜報活動をしたのです。この中で彼の上手な中国語が役に立ちました。
その後、朝鮮に戻る使行の終盤、鳳凰城に至って、彼の歴史認識が再び明らかになります。
奉城の東方は鴨緑江に囲まれ、西方は療養と瀋陽を垣間見る。北に建州を押さえ、南には大きな海を引き寄せており、地理的に重要な位置である。 柳得恭は高麗と契丹が鴨緑江を境界にしていたから、契丹が鴨緑江を越えて侵入することができたと思いました。鴨緑江ではなく、その向こうの鳳凰城を占領したら、侵入することはなかったと考えたのです。それで鳳凰城が朝鮮の入り口であるべきだとみました。
「渤海考」によれば、彼は朝鮮の根本が高句麗であり、高句麗と渤海は一つだと考えました。当時の大金が滅びた時、高麗が鴨緑江の西側を取るに価すると思いました。しかし、高麗の西側が鴨緑江にとどまった現実を歯痒かった。
私たちは彼らの本音を見ても、本心を表現しなくてもいいでしょうか。 (中略) 歴史の出来事、戦い、守る強弱、山川の要塞、城邑の沿革を深く理解することを示すのである。
彼は当時、遼東の情勢が平穏だったにもかかわらず、清が鳳凰城、居留河などに城を築くなどに関心を寄せていた分、我々も気を付ける必要があることも残しました。
柳得恭は、使行の後に国際情勢に深い関心を持ちました。朝鮮をはじめ、清、モンゴル、日本、また 現在の沖縄地域である琉球国、ロシア、オランダ、イギリスなどに関する自分の考えを「古芸堂筆記」に書きました。
柳得恭は「朱子学の良い版本を持ってきなさい」という正祖の命令に従って再び旅に出ます。しかし、朝鮮と違って清では朱子学が通用しなかったため、その版本を手に入れることはできなかったです。
40年後、清国はイギリスとの戦いに敗れ、西洋列強との通交を始めることになりつつ、朝鮮の先行きも予測できない状況に落ちます。
世界は広く、たくさんの国が存在する中で、それを積極的に経験することと、知らないまま現状を維持することは大きな差があります。朝鮮を超え、より広い世界に向き合った柳得恭は、朝鮮の将来をどのように見定めたのでしょうか。
朝鮮国の通信使は7月10日まで 熱河省に到着し、宴会に参加すること。
鴨緑江を渡る前の6月21日、清国から一通の公文を受け取ります。
本来なら8月13日に北京で開かれる宴会に参加する予定でしたが、乾隆帝の誕生日を迎え熱河省で宴会を開き、各国の通信使を招待する予定なので、朝鮮通信使もこの宴会に参加しようということでした。
一通の公文によって朝鮮通信使は進路を変えることにします。通信使は瀋陽で二組に分けていくことにします。一部は大きい荷物などを大道に沿って延慶に向かわせて、残りは軽い体で熱河省に向かうことにしました。朝鮮通信使としては初めて行く道でした。
その中には実学者の柳得恭がいました。彼は熱河省までの旅程を記録して「熱河紀行詩註」を書きました。初めて行く道だったので、次回来るかもしれない人たちの道しるべとして記録を残しました。
柳得恭は以前にも清国に行ったことがあります。その時、彼は遼東の地を通過しながら渤海に興味を持つようになり、これをきっかけに 「渤海考」を残しました。
柳得恭は渤海が高句麗人によって高句麗の地に建てられた国であると考え、渤海を新羅と合わせて南北の国史として扱うべきだと考えました。渤海の歴史を欠いて、我々民族の歴史は語れないと思ったため、「渤海考」 を書きました。
柳得恭は3回にわたって清国に行き、その時の経験が歴史を執筆するたびにたくさん役に立ちました。1790年の清国訪問は二回目でした。彼は通信使の役目についても自分の意見を記録しました。
〈予記〉によれば、「よくやった!他国の事情を覗き見る」と書いており、これが通信使の役目である。(中略)相互に騙し合うから、いつ頃に目や耳にもなれるのか!
通信使は高低を問わず自分の職に忠実しなければならないのに、私欲を前面に出したり、無責任な態度を示す者がいることについて嘆いた言葉です。
彼は使行時に聞くことや見ることも使行の目的でありながら、情報収集だと思ったので他国の言語にも興味を持ちました。ただ清国に出入りすることにとどまらず、外交官として国に役立つような方策を模索したのです。
彼はこのような考えに基づいて、様々な記録を残しました。熱河省で出会った色々な地域の王や使者について評価した記録から、各地域の緊張関係や権力構造を推測することもできます。また、彼は清国の臣下の中で誰が実権を持っているのかを慎重に探り当てたりもしました。
つまり、彼は今日の海外諜報活動をしたのです。この中で彼の上手な中国語が役に立ちました。
その後、朝鮮に戻る使行の終盤、鳳凰城に至って、彼の歴史認識が再び明らかになります。
奉城の東方は鴨緑江に囲まれ、西方は療養と瀋陽を垣間見る。北に建州を押さえ、南には大きな海を引き寄せており、地理的に重要な位置である。 柳得恭は高麗と契丹が鴨緑江を境界にしていたから、契丹が鴨緑江を越えて侵入することができたと思いました。鴨緑江ではなく、その向こうの鳳凰城を占領したら、侵入することはなかったと考えたのです。それで鳳凰城が朝鮮の入り口であるべきだとみました。
「渤海考」によれば、彼は朝鮮の根本が高句麗であり、高句麗と渤海は一つだと考えました。当時の大金が滅びた時、高麗が鴨緑江の西側を取るに価すると思いました。しかし、高麗の西側が鴨緑江にとどまった現実を歯痒かった。
私たちは彼らの本音を見ても、本心を表現しなくてもいいでしょうか。 (中略) 歴史の出来事、戦い、守る強弱、山川の要塞、城邑の沿革を深く理解することを示すのである。
彼は当時、遼東の情勢が平穏だったにもかかわらず、清が鳳凰城、居留河などに城を築くなどに関心を寄せていた分、我々も気を付ける必要があることも残しました。
柳得恭は、使行の後に国際情勢に深い関心を持ちました。朝鮮をはじめ、清、モンゴル、日本、また 現在の沖縄地域である琉球国、ロシア、オランダ、イギリスなどに関する自分の考えを「古芸堂筆記」に書きました。
柳得恭は「朱子学の良い版本を持ってきなさい」という正祖の命令に従って再び旅に出ます。しかし、朝鮮と違って清では朱子学が通用しなかったため、その版本を手に入れることはできなかったです。
40年後、清国はイギリスとの戦いに敗れ、西洋列強との通交を始めることになりつつ、朝鮮の先行きも予測できない状況に落ちます。
世界は広く、たくさんの国が存在する中で、それを積極的に経験することと、知らないまま現状を維持することは大きな差があります。朝鮮を超え、より広い世界に向き合った柳得恭は、朝鮮の将来をどのように見定めたのでしょうか。