이하응(李昰應)을 중국에 영원히 감금하는 방안과 중국이 내란을 진압하였으므로 공의(公議)를 통해 일본의 추가 요구를 막아야 한다는 서리 북양대신이 총리아문에 보낸 서신과 관련 첨부 문서
1) 將李昰應永遠羈禁中國, 由朝鮮國王歲致奉養之需. 2) 布告朝鮮致亂與中國代爲戡定綠由, 藉公議以杜日人格外誅求.
주 001
각주 001)

여기서 마건충이 조정에 보고한 내용에서는 대원군이 사절이나 편지를 보내 연락을 주고받았다는 점이 철저하게 서술・보고에서 배제되어 있다. 이것은 이와 관련된 부분을 번역・정리한 연구와 비교해 보면 아주 두드러지게 나타나는데,[岡本隆司, 『馬建忠の中國近代』(京都大學出版會, 2007)의 第II部 6章 「東行三錄」, pp.87-164를 참조] 이를테면 조영하・김홍집이 마건충을 만났을 때 대원군이 보낸 편지를 전달하였는데, 이 보고에서는 그런 부분이 전혀 언급되어 있지 않다. 대원군이 그와 연락한 다른 경우도 마찬가지로 이 보고는 생략하고 있는 것으로 보아, 대원군을 반란의 주동자, 수괴로 몰아 아예 협상・논의의 대상에서 제외하고, 임오군란 이후 조선의 정국에 대한 청조의 정책을 관철하려는 의도에서 이런 방향으로 몰고 가려 하였던 것으로 볼 수 있을 것이다. 대원군의 배제에 대해서는 또한 국왕이나 민씨 척족, 그리고 김윤식, 어윤중, 김홍집 등 개화파 역시 마찬가지의 입장이었을 것이다.
七月二十二日, 署北洋大臣張樹聲函稱:
本月二十日, 登瀛洲兵船解送朝鮮李昰應到津, 一切辦理情形, 樹聲已具疏馳奏, 毋庸贅陳. 此次亂事, 李昰應陰爲禍首, 幾危該國宗社, 實爲罪在不赦. 惟彼在國中與國王居父子之親, 無君臣之分, 禮絶百僚, 瞻仰者衆, 且平日持拒絶外交之議, 其稱先述古之士庻, 亦不免意存左袒. 叠接吳·丁兩提督及馬道函牘, 均言李昰應地屬尊親, 設竟按罪行法, 該國王將無以自處, 亦無以止該國悠悠之口, 而盡喻其心. 然使復能反國, 不特將來醖釀依附, 威勢所積, 又盧再起亂萌, 不可收拾, 即目前彼國人心, 仍不免觀望徘徊, 從違莫定. 樹聲前曾竊議, 如能生致昰應, 莫如永遠覊禁中國, 由該國王歲致奉養之需, 以恩義兩盡. 現據馬道來禀, 接該國王函告, 欲親至馬道館中, 爲昰應緩頰, 竝令趙甯夏·金宏集等附輪至津, 籲乞天恩, 寛宥昰應. 揆諸情理, 亦事所應有. 李昰應畧加調養, 即可就道, 解送到京, 仰惟朝廷仁至義盡, 如何處置, 自有權衡. 第既據吳·丁兩提督及馬道稱述各節, 不敢不附陳聰聼. 馬道另禀, 請將朝鮮致亂與中國代爲戡定縁由, 布告日本及曾與朝鮮立約各國, 期藉公議, 以杜日人格外誅求之志, 似不爲無見. 原禀錄上, 伏候鈞裁. 又馬道寄到筆談及花房義質所開七款, 朝鮮國王告示, 竝致吳提督手書, 潘靑照與李昰應筆談均可備鍳核. 謹照錄附呈. 專肅, 祗叩鈞綏.
照錄淸摺
별지: 「日使花房義質所議七款」: 朝鮮懲凶, 撫恤傷亡, 賠款, 竝准日人遊曆內地與使館駐兵.
1) 「日使花房義質所議七欵」.
一. 自今十五日内, 捕獲凶徒巨魁及其黨與, 從重惩辦事.
二. 遭害者優禮瘞葬, 以厚其終事.
三. 撥支五萬元, 給與遭害者遺族竝負傷者, 以加體恤事.
四. 凡因凶徒暴舉, 日本國所受損害及凖備出兵等一切需費, 照數賠償事.
五. 擴元山·釡山·仁川各港間行里程,주 002
각주 002)

爲方百里[朝鮮里數]. 新以楊花鎮爲開市場. 咸興·大坵等處爲往來通商事.간행이정(間行里程)은 강화도조약 이후 일본인들의 개항장에서의 자유통행과 상업행위를 인정한 활동 구역을 말하는데, 1876년 강화도조약(조일수호조규) 이후 8월 24일에 조인된 「조일수호조규부록」 제4조에 의하면 일본인들의 활동 지역은 방파제로부터 동서남북 각 지름 10리로 한정되었다. 1882년 8월 30일에 조인된 「조일수호조규속약」에서 간행이정을 사방 50리로 확대하기로 하고, 2년 후에 다시 100리로 확대할 것을 약정하였으나, 1883년 「조일통상장정(朝日通商章程)」이 체결되면서 대폭 간행이정이 확장되고 위법자에 대해서는 일본의 치외법권을 적용하는 협약이 1883년 7월 25일 체결되었다.(「인천・원산・부산 세 항구에서의 일본인 활동 범위에 관한 약정」)
六. 任聼日本公使, 領事及隨員, 眷從等遊曆内地各處事.
七. 自今五年間, 置日本陸軍兵一大隊, 以獲衛日本公使館事. 但設置·修繕兵營, 朝鮮政府任之.
별지: 「獲解委員潘靑照與朝鮮李昰應筆談」: 朝庭有機要公事, 急待相商.
2) 「護觧委員潘靑照與朝鮮李昰筆談」.
潘: “本官刺史潘靑照, 奉制臺派來, 伴送大駕入都.”
李: “謝謝. 但病勢甚害, 爲悶悶.”
潘: “當轉禀制臺, 似可從緩, 即請安息, 不必多談有勞淸神. 聞此來甚倉卒, 未免勞頓. 此次入都, 水程三日, 舟上頗爲安逸, 又陸路半日, 共計三日, 即達京師. 即轉禀制臺, 商改明日起程何如?”
李: “鯫生年今七十, 纔經亂離, 心神靡定, 今已七八日, 竝不安睡, 又沮食多日, 勢將嬰病也. 收神調病, 乃可隨問應辦, 可以妥商, 乞以此狀詳報制臺. 若再明開輪, 實是公私仝幸, 十分惠諒.”
潘: “承示各節, 皆屬實情, 自當轉達. 但中朝盼駕甚殷, 有機要公事, 急欲待商, 恐制臺不敢久留大駕.”
李: “機要公事, 未審何件辦理, 鯫生非但年老, 鄙邦機務一無料理, 遽當民亂, 大小事務, 皆屬於家生. 鯫生則山牎(牕?)閒日, 只以教孫爲生涯者耳. 然天朝既有召命, 機務, 商務爲要, 則此時尤可收拾精神, 望代另圖, 以便一二日調將焉.”
별지: 「馬道建忠來稟」: 先除內亂, 使朝鮮王得以自主, 再與日本談判, 竝中國代爲戡亂緣由公告各國, 杜日本格誅求.
3) 「馬道建忠來禀」.
敬禀者.
朝鮮時事, 内患與外憂竝亟, 而外憂之生, 既由於内患. 斯内患之去, 尤急於外憂. 今日之計, 莫若爲朝鮮先除内患, 使其國王得以自主. 然後召日使告以前日之事, 皆亂黨所爲, 國王一無開罪. 茲仰上國之力, 悉與屏黜, 事權反正, 願爲和好如初, 因以所請各條, 與之從容商榷. 如此則名義既正, 事理亦順. 故於次日, 一面函商筱帥進兵, 一面馳赴仁川, 將此意告知花房, 令勿錯認題目. 惟至仁川後, 爲花房反復開陳, 雖决裂之意稍回, 而要挾之心猶甚. 擬請函商總署, 請將朝鮮致亂與中國代爲戡定縁由, 布告日本政府, 竝泰西諸國之曾與朝鮮立約者, 俾群曉然於前日之事, 非出國王之意. 義難遇事誅求, 則日人或將屈於公議, 不至始終堅執. 至此後辦理, 能否應手, 尚難預知. 職道惟有勉竭駑駘, 相機因應, 既不敢激烈, 以傷友誼, 亦不敢詭隨, 以累藩封, 以期仰副憲臺委任之意於萬一而已.
별지: 「朝鮮國王告示手書」: 諭枉尋里人民, 拘縛亂首,亂黨, 以免全村屠戮.
4) 「朝鮮國王告示手書」.
爲曉諭枉尋里人民事.
嗚呼! 六月初十日之事, 即千古所未有之變也. 惟尔枉尋一村, 密邇京城, 爪牙心腹之所在, 而倡亂行凶者多出其中, 叛君犯上, 暋不知畏, 天理昭然, 豈能覆載於天地之間乎? 今將大兵四面全圍, 宜一舉屠滅, 無有孑遺, 而猶有不忍之心, 或慮無辜之罹, 茲先曉諭. 惟爾一村之内, 未必盡化逆腸, 雖怵威勉從, 非其本心. 今大軍列布, 禍色廹至, 能縛亂首者, 賞錢一千兩, 縛致亂黨者賞錢一百兩, 獻其首級者, 各減半. 首惡既伏其罪, 脅從自歸勿論, 全村之民, 可免屠戮. 如或執迷不悟, 敢思拒捕, 又或疑畏伏匿, 不遵王命, 則槍砲交加, 玉石俱焚, 是自取之禍. 雖悔何及? 爾等詳視諭文, 各思保身, 予言不謬, 想宜知悉.
七月十五日示.
별지: 「吳長慶·馬建忠收朝鮮國王手書」: 請戡定枉尋・利泰兩村亂兵.
5) 「朝鮮國王手書」.
啟者:
小邦不幸綱紀頽圮, 乃於六月上旬亂軍作逆, 入宫犯上, 戕害公卿, 打破人家, 圍逐鄰使, 殺其從人, 造下彌天大惡, 自知罔赦, 悍然讐國. 此皆宿衛腹心之卒, 勢逼地近, 難以圖滅. 何幸天朝諸大人, 仗皇靈, 提雄兵, 鎮靖藩服. 此正欹器復整之秋, 逆徒就殱之日也. 亂軍所居, 多在枉尋·利泰兩村, 幸須整飭部伍, 掩其不備, 執訊獲醜, 夬正典刑, 以洩神人之憤, 以惩梟獍之習, 不勝幸甚. 此上吳·馬兩大人麾下勛鍳.
七月十五 夜到.
별지: 「馬道建忠寄到筆談問答. 二十九日午後五㸃二刻至日艦, 晤花房義質問答節畧」: 日本不宜立卽進兵朝鮮, 應先設法使國王自主, 較易辦事.
6) 「馬道建忠寄到筆談問答. 二十九日午後五㸃二刻至日艦, 晤花房義質問答節畧」.
寒喧畢.
忠曰: “初九日亂黨之起, 究屬何人主使, 執事可明知否?”
花房曰: “此亦不得其詳, 因出朝鮮執政前由釡山遞到咨文一通, 相示内稱亂黨之起, 不特戕害日人, 亦且戕害在朝鮮臣若干名. 此禍實屬兩國不幸, 幸國太公威望素著, 刻已出鎮, 人心已定云云.”
又曰: “此咨内竝無一言道及朝人不是處, 殊爲悶悶.”
忠曰: “余四面打探, 深知此事實係亂黨所爲, 與去歲謀, 而未發之黨與相同, 既非出自彼國朝廷之意, 似難刻意誅求. 亂黨之興, 何國蔑有, 不幸貴公使適逢其際耳. 但此事如何辦理, 可得聞否?”
花房曰: “此來將欲勘明起事根由, 然後再行定議.”
因出其外務省致各國公使咨文一通云, “此外竝無他辦法.”
忠曰: “咨文之意, 極是平和, 想見貴國辦事持平, 不勝佩服. 貴國調來之兵, 現已登陸否?”
花房曰: “已飭登陸一二百名, 明日余將親往仁川駐紥.”
忠曰: “用兵之事, 似宜稍緩. 聞閣下不日逕赴王京然否?”
花房曰: “若高廷遣一大員, 來此辦理, 則王京之行, 似可稍緩.”
忠曰: “昨已由仁川府使遣人入京, 催其速派大員, 前來商議, 明日想有回復. 如有大員派來, 即行知會執事. 但余聞國王幽閉, 不得自主, 若執事卒然進兵, 國王恐難保全, 國王不保, 則大院君素嫉外交, 一旦大權獨攬, 此事恐難速結, 而貴國兵艦遠出過久, 似亦非計. 惟今之計, 宜設法令國王得以自主, 而后辦事自易易也.”
花房曰: “此意甚善. 余聞貴國派君來此查辦, 甚爲欣喜. 但不知有何妙策, 可令國王復行自主乎?”
忠曰: “此事所係甚重, 必須詳探明白, 方可定計. 總之, 此行惟僕與君當同心共濟, 陽分陰合, 庶得之耳.”
별지: 「三十日晨十㸃鐘, 花房來舟晤談節畧」: 日本之對韓要求.
7) 「三十日晨十㸃鐘, 花房來舟晤談節畧」.
花房曰: “頃接來函, 知趙·金二人已至. 深感.”
忠曰: “彼二人午刻來舟. 晤彼, 當令彼往訪, 何如?”
花房曰: “甚善. 余已定於午後登路. 若趙·金二人不及在舟相見, 余當往訪於花島也.”
忠曰: “二人既由執政遣來定議此事. 不識貴國究竟所欲者何事, 敢乞下示, 可先告於彼, 作速了結此事, 不更妙乎?”
花房曰: “所欲之事, 亦視其來意何如耳. 若彼以好來, 則謝罪, 徵辦亂首, 賠兵費, 給卹銀, 與日後得保日人安居無事而已. 否則事有難以預料者.”
별지: 「三十日午後三㸃鐘, 揚威舟次與趙甯夏·金宏集筆談. 趙甯夏主筆」: 朝鮮應與日本速結, 早退日兵.
8) 「三十日午後三㸃鐘, 揚威舟次與趙甯夏·金宏集筆談. 趙甯夏主筆」.
趙曰: “渴望之餘, 又拜尊顔. 不知仰敝邦間遭無前之變, 僕等不死, 痛恨何極.”
忠曰: “僕正首塗南旋, 冀見伯相秉承一切, 行至上海, 忽接我駐日本欽差來電, 傳聞初九日之事. 我北洋大臣函商總署, 飭僕等迅速前來, 察看一切. 丁軍門已於昨日回津, 不日從來. 此事便有眉目, 但叠晤花房公使, 意甚快快辦理, 恐多棘手. 務望二公將此事顛末, 推誠以告. 總之, 僕此行爲貴國計, 亦爲大局計, 關係匪淺.”
趙曰: “敝邦經用甚絀, 年來軍餉不敷, 且頻與外國來往, 故亂卒, 莠民縁以爲此爲弊, 激而成亂. 初九日亂軍先入宰相, 幾家毁破, 翌日仍向王官, 咆哮以至. 蒼黄网措之中, 大院君聞變而赴, 曉飭撫戢, 幸而解散. 數日之間, 上自公卿, 下至象胥, 毁破其家, 至於致命甚多. 初九日夕, 方亂軍之作閙也. 莠民謂此時可乘, 成群作黨, 欲殺盡日人云. 故國家先爲秘通于花房, 以爲凖備避禍之計, 以是公使及隨率兵隊, 得以免禍. 與者間遊未返幾人, 當日路上遇害. 亂軍聞花房已去, 追到仁川, 又殺幾人矣. 事實如此, 我國家無所負于日人, 而至于當場自救不暇, 先機指示以開生路, 則日人之含憾於我國之理, 恐不當然. 日前伴接官尹成鎮見近籐真鋤, 亦言顛末, 而渠亦詳知稍解云. 小邦有事, 動貽上國之憂, 萬萬痛恨, 大人之此來勞神, 感極, 感極, 無以仰達.”
忠曰: “二公來此, 想出國王之命. 不知有何見諭否?”
趙曰: “當日勘定内亂以後, 國家大小事務, 暫决于大院君. 今於大人之臨, 以爲僕等屢奉大誨, 特令來拜請教.”
忠曰: “大院君之遣派二公也. 曾言及處置日人之道乎?”
趙曰: “日人日前書報政府, 將率兵隊五百名, 前駐京城内爲請云矣. 今日見日人, 已千名下陸, 以有政府如何爲答處置, 日人有何道理乎? 書幣亂意, 備言事變顛末, 仍及如前和好諸條, 然彼之怏怏, 終難釋然. 望乞大人如何指教.”
忠曰: “花房公使已知二君之來, 晨間來訪, 特請僕轉請執事往晤, 不識執事能果往否?”
趙曰: “所教甚當. 俄已委員送帖, 而回路欲爲暫訪爲計矣. 今若蒙教示, 當惟命是從.”
忠曰: “日廷調集兵艦, 業已移咨各國, 此事了結, 有非可口舌争者. 故中國亦擬調兵艦來此, 以觀動静. 但此事遲結一日, 則多受一日之累, 姑無論懲辦亂首, 優卹已死日兵家屬銀兩, 已屬不貲, 而此次日艦往來, 與日兵之費, 多駐一日則異日貴國多賠一日之費. 故此事總以速結爲要, 而速結之法, 莫若由執政先派心腹大員, 誘以好言, 以謝罪爲名, 而後僕再從旁解勸, 或可易結. 顧花房謂此事總須國王出面, 否則大院君自來辦理, 方可了結. 僕思日人此次師出有名, 有非他國所可解勸, 而揆之情理, 則萬無國君自行出面辦事之理. 計莫若二公内一位, 于明日作速回京, 私禀大院君權衡獨斷, 親來浦口, 與花房計議. 好在大院君威望素著, 且有僕等在此保護, 日人必不敢無禮. 此事保管在僕身上, 必令貴國不致甚爲吃虧. 若或遲疑, 則錯過事機, 以後情形, 有難逆料矣.”
趙曰: “所教切至感極. 僕來時, 國王有命, 兼承大院君旨意. 若蒙大人如何指教, 則飛告商辦爲定. 謹當依教回京禀遞. 而來若未敢臆揣耳. 花房如今時馳往京城, 將何以爲之耶. 亦惟在大人忘勞啟駕, 未知何如?”
忠曰: “花房本擬馳往王京, 經僕再三勸諭, 謂京亂黨尚未平復, 若驟然馳入, 恐生不測. 茲花房已定在仁川守候數日, 故僕急欲大院君出京辦理, 則花房之行可阻, 遲則僕不敢知矣.”
趙曰: “先事勸諭爲拜感銘. 謹當具由回達.”
筆談内另有三條, 隨問隨答, 即被趙·金二人撕去, 不肯留抄, 而此筆談亦堅請, 以親筆回禀.
忠曰: “王宫受驚, 何以王妃獨薨, 傳聞謂王妃之薨, 有使之者乎?”
趙曰: “此非臣子所敢言, 亦臣子所不忍道.”
忠曰: “現在魚允中·金玉均皆在超勇,주 003
각주 003)

思欲晤二公, 如何?”‘金玉均’은 아마 ‘金允植’을 마건충이 착각한 것으로 보인다. 마건충은 하나부사 요시모토가 돌아가고 어윤중(마건충은 金允中으로 기록하고 있다)이 다시 왔는데, 조선 관원은 두 명이 함께였고, 한 명은 교리(校理) 김옥균(金玉均), 다른 한 명은 사관(史館) 기주(記注) 서광범(徐光範)이었다고 기록하고 있다. 이들은 일본에 있다가 국란 소식을 듣고 花房義質과 함께 돌아왔으며, 마건충은 이들과 오래 이야기를 나누었다고 기록하고 있다. 馬建忠, 「東行三錄」, 「適可齋記行 卷六」, 王夢珂 點校, 『馬建忠集』(中華書局, 2013), p.177.
趙曰: “今日國事, 極爲危險, 僕等若非素蒙大人眷顧, 亦斷無生理, 而道園家破,주 004 人之欲捉道園者屢矣. 皆以與大人相知故得脱免.”
金曰: “魚·金皆余相知, 本擬一見, 惟處此極險之地, 不見爲佳耳.”
忠曰: “今有密事一詢, 想二公素爲國王信任, 而僕與二公共事有日, 不可謂交淺言深, 吾想國王此時斷難自主.”
趙曰: “誠如卓見.”
별지: 「初一日一㸃二刻, 魚允中來舟筆談節略」: 大院君現雖握有握兵權, 但軍隊皆不堪用, 其黨李裕元等多未執政.
9) 「初一日一㸃二刻, 魚允中來舟筆談」.
忠曰: “余見趙大官, 其人尚屬忠誠. 昨日筆談中, 頗願吐實.”
魚曰: “可幸. 此人亦見忤於某人者, 於今亂有翊護太王妃, 幾遭不保.”
忠曰: “現在朝内黨太公者, 共有幾人?”
魚曰: “實不多. 以不能下手之故, 皆惴惴若不保.”
忠曰: “約有幾人, 能舉其姓名否?”
魚曰: “現多退處而李裕元, 鄭顯德·李載完·趙秉昌·姜淺·韓章錫·李建昌等幾個人.”
忠曰: “其子載冕爲何如人?”
魚曰: “碌碌之人, 現新爲訓練大將, 握兵柄.”
忠曰: “前列諸人, 有新秉柄在顯要者否?”
魚曰: “現未及部署, 故只先收兵柄而已. 皆未及枋用.”
忠曰: “京内兵共有多名? 足以禦外侮否? 又前者兵閙之事, 果爲減粮耶, 抑太公陰使之耶?”
魚曰: “兵數約爲萬餘, 兵未鍊, 器甚鈍, 何以禦外? 兵閙始也, 陰約之. 中也, 激之.[有通文, 倭人見之] 末也. 指使之.”
별지: 「初二日夜十㸃鐘, 趙甯夏·金宏集來舟筆談. 趙甯夏主筆」: 勸阻花房幾入朝京, 朝鮮盼望中國弁兵速入京駐紮.
10) 「初二日夜十㸃鐘, 趙甯夏·金宏集來舟筆談. 趙甯夏主筆」.
忠曰: “頃見花房云何?”
趙曰: “早率兵隊赴京云. 幾次勸阻不聼. 故看其如何, 下回晚後, 附日出小輪船委告.”
忠曰: “頃接彼函, 亦以明晨率兵赴京爲言. 僕意太公前來, 尚可阻其前往, 今則無可挽回. 惟至京後, 須由政府善爲款之. 冀四五日後, 我兵渡至, 他國兵船亦來, 或可漸奪其氣.”
趙曰: “丁軍門雖未至, 望大人先爲忘勞赴京, 千萬, 千萬. 敝邦之仰倚上國, 雖至愚之婦孺亦浹髓感激者也. 望乞忘勞先爲赴京若何? 國王教意亦如是耳.”
忠曰: “貴國人心尚在惶亂, 兼之日兵坌至, 僕須俟我兵之至, 列隊前往以壯我聲威. 兼以牽掣日人, 方可辦事. 且他國兵船來此, 不可無人酬答. 美舶船主大不滿意於花房, 暨其提督, 而與僕甚善. 若乘間聯結他國, 亦未始非制勝日人之道.”
忠曰: “明晨二公返王京否? 若不返王京, 請午前九㸃鐘來舟. 當先飭舢板在浦頭相候. 午後奉陪同赴美舶. 彼船主意甚殷殷. 謂前在釡山曾承貴國東萊觀察使之召, 至今猶感紉無既.”
趙曰: “方欲此事, 先請之, 承此垂教, 尤極感紉. 謹當如教.”
忠曰: “午後曾修函, 以飭南陽府使採辦柴草一事相凟. 不識能先期知照否?”
趙曰: “依教指揮該府使. 尊函在濟物奉覧.”
忠曰: “花房曾否提及入京擬辦何事, 竝擬與何人辦理? 太公聞日兵入京亦胸有成算否?”
趙曰: “花房率兵入京之旨意, 彼云交友之國有内亂, 則義當相爲保護, 且亂軍·亂民不可不惩辦云云. 竝不欲與太公辦事, 只欲國王引見告訴. 太公知日兵入京, 無可如何. 僕等之憧憧, 恨不早爲溘然.”
忠曰: “僕恨未親率數營同來, 不然則我軍先至, 已早奪日人之氣矣. 然不出三日, 丁軍門定能帥兵東渡. 惟我兵須在南陽登陸, 以免與日兵糾轕.”
趙曰: “俄見花房, 僕已言貴兵若入京, 則中國亦當顧念敝邦, 現在兩位大人, 又應率兵入京云云, 彼既知之矣. 不必南陽入京駐紥, 則我國大小臣民, 如旱遇雨矣. 更多垂諒.”
忠曰: “南陽不過爲上岸地步, 登陸後定即逕行入京. 惟我兵之來, 凡柴草食物, 須令民人送至營内, 照價給付, 當嚴飭我軍不得秋毫有犯.”
趙曰: “依教. 僕等亦願同行, 性命在大人之手.”
忠曰: “自然僕當請二公偕行, 國王聞僕等之至, 想亦欣然. 但此時不可太露風聲, 屆時自有區處. 務望二公此後以實情相告.”
趙曰: “國王感激, 不敢形狀, 教意敢不銘肺?”
별지: 「初三日午後九點鐘, 魚允中來舟筆談」: 戕害外戚, 圍使館, 劫殺大臣, 皆爲李昰應所使, 藉各國之力以奪日人氣焰.
11) 「初三日午後九點鐘, 魚允中來舟筆談」.주 005
忠曰: “現在有何消息?”
魚曰: “惟探得情形, 在日船一晝夜, 而現必生梗乃已. 彼人拗戾漸痼, 不離國王之側, 人不敢以外務説及. 惟引用同黨, 睚眦必報, 死人日積, 於日人議和議戰, 終無定見. 惟激亂軍, 使之尋事, 彼人不祛, 國必亡乃已. 痛哭, 痛哭.”
忠曰: “君知王妃爲彼人酖死乎? 是何情景?”
魚曰: “王妃有内助之端, 故彼人入闕, 以亂軍脅之, 廹以飲藥.”
忠曰: “亂軍之起, 傳聞減粮之故, 但所減之粮, 歸國帑乎? 抑飽私囊乎?”
魚曰: “此皆激而成此變也. 本邦近因財政窘竭, 掌賦之臣籌劃不善, 軍餼屢朔未給, 月初頒餼之時, 倉吏以陳腐散給, 且不凖斛量, 因與倉吏口角, 格殺倉吏數人, 倉堂執軍人致之法, 軍人以無罪横拏訢之, 而不聼放釋. 彼軍人因四處奔訴, 及到某人之處, 彼乃投以一通文字, 乃 ‘入闕作梗殺閔哥, 乃殺倭人與外交之人, 國家可安’ 之意也. 乃彼軍及無賴乃行此無前變怪, 彼若無指授, 何敢有此變乎?”
忠曰: “然則, 戕害外戚, 攻圍使館, 刼殺曾與外交之臣, 皆彼所使矣.”
魚曰: “是矣.”
忠曰: “明日超勇開往南陽, 專候丁軍門之至, 閣下想可同行趙, 金二人, 亦與僕偕行, 約初五六日開往南陽, 我軍一至, 即行登岸, 直入王京, 但彼人之罪, 雖已可指, 奈無實據, 碍難下手, 則如之何?”
魚曰: “憑據即與定後對他人説明者也. 然則趙·金與中亦連速著作據, 下陸後可使國民作據, 亦可聞國民起公憤, 發文八道, 約以七月十七日會擊此賊, 而未知果能如期否也. 其聲明罪狀, 明白於通文中, ‘此賊若有一分人理, 向誰敢奪其權, 其奪權之由, 專由虜殺國民之無罪者, 掠奪民之富有者, 奸淫人之婦女, 辱僇士夫, 故國人切齒, 而失權非人之奪之也’.”
忠曰: “下陸後, 檄民作一公狀甚善. 未幾趙·金即來, 僕當與之偕往美舶, 亦以固結外交. 美人聞貴國起亂之由, 甚爲切齒, 且憤日使躁進, 不願見彼一商行止, 是亦可爲之機也. 若三四日間, 英·法·德各國兵舶來此, 僕自有法, 藉各國之力, 以奪日人氣慆. 但君在日艦, 可知花房入京有何主見?”
魚曰: “嘗見伊緩進, 而伊見本邦大臣書, 促發向王京, 想有閙事, 囑彼勿讐, 國人只讐亂首, 彼亦以爲然, 而彼國右大臣岩倉及外務卿井上, 亦主和議. 今欲入見國王, 請令國王信臣議事, 不欲與某人爲議云耳. 先進兵者, 爲六百人耳. 與各國相議, 甚是好道理耳.”
별지: 「初三日夜九㸃鐘, 日本外務大書紀官竹添進一郎來舟筆談」: 日兵到朝在懲辦亂首, 竝設法善後. 亂黨攻擊日使館, 非出自朝議, 日祗要求賠償與卹銀.
12) 「初三日夜九㸃鐘, 日本外務大書紀官竹添進一郎來舟筆談」.
竹添曰: “花房托弟敬謝厚意.”
忠曰: “本擬趨訪花房, 星夜縁艦上無人, 未克如願, 實深歉及. 不日亦擬前抵王京, 當可相晤, 還乞執事函致花房星使, 將此意先容焉.”
竹添曰: “今次事件, 其初事情不明, 敝國人心動摇, 幸我廟堂察朝鮮開國未久, 外交之事不能習熟, 猶我國二十年前情况, 不敢兵革争曲直, 原之公法, 欲妥慎結局. 但聞暴徒之餘焰尚熾, 故以兵員充護衛, 乘坐軍艦而來矣. 弟亦承命來觀動静, 以仁川情狀察之, 朝鮮政府亦似少侮暴舉者. 故弟以明後回國, 欲陳事情, 以安我政府之憂. 敢問高見何如? 若閣下尚爲有可慮者, 則弟亦延眈數日可也. 幸勿吝教.”
忠曰: “初九之亂, 甚爲猖獗, 以致酖死王妃, 毒戮重臣, 誅殺諸臣之有外交者. 目今亂勢雖平, 而死灰未熄, 辦理此事, 甚爲棘手. 縁執政之人, 非出國王之命, 欲與執政辦理, 則執政之名不正, 欲與國王商議, 則國王不能自主, 不識花房星使此去漢城, 先從何處下手. 至於亂黨滋事, 攻擊使館, 决非出自該國朝議, 想亦不辯自明.”
竹添曰: “辦理此事, 實爲棘手. 然斷其曲直, 欲以鎮定朝鮮, 則殆乎干涉. 花房之意, 則弟不知也. 然以弟考之, 彼政府果以王命爲名, 以議及此事, 則自我觀之, 猶是名正也. 若夫國情則政黨之争, 而非開鎻之事, 故苟得速結局, 徐徐察其曲直, 亦似無不可. 不知高見何如?”
忠曰: “所論極是. 貴國與朝鮮爲與國, 自不得議其内政. 但辦理此事, 似宜懲辦亂首之攻擊使館者, 竝宜設法爲善後之計. 若亂黨不除, 善後終無善法. 在花房星使與朝鮮政府自宜以速結爲妙, 而弟爲大局起見, 故汲汲焉以朝鮮内政爲慮耳.”
竹添曰: “敝國之意, 專在重交誼, 非乘人之亂, 以謀掠奪者. 故所求於朝鮮者, 不過懲辦亂首, 竝設法以爲善後之計. 弟所切望者, 只有速結局耳. 若遷延時日, 朝鮮亂民再有暴動, 則我國不已以兵革責其罪, 果然則與國之交絶, 而亞細亞全局更岌岌矣.”
忠曰: “誠如高見. 善後之策, 何以措置, 想執事已有成竹矣.”
竹添曰: “至求償損害及兵備之費, 則萬國所同, 不得不遵之. 但敝國之出此, 非敢貪財也. 故欲從實算之, 决不以過當處之也. 至善後之策, 則想當不出於公使, 領事及其眷屬得遊内地各處, 以親其人民等項也. 朝鮮之所以深惡外人者, 其原不過少見外人, 故多怪疑耳. 彼已疑我, 故我商民亦激之, 交怨交疑, 果然, 則歐洲諸國乘通之日, 亦如此. 萬一不幸朝鮮暴徒有攻擊歐人之事, 則朝鮮之憂更大. 故今日爲彼之謀, 似狎見外人, 尤爲先著.”
忠曰: “朝鮮貧瘠實甚, 國帑空虚, 民生匱乏, 將來此事結局, 優卹銀兩亦情理之常, 然索之過多, 恐朝鮮亦不堪命. 至於兵備之費, 弟則難贊一辭, 縁朝鮮賦出無多, 即使貴國實算以求, 不知朝鮮何日償了. 至内地游曆, 使朝民狎見外人, 此論甚碻. 但甫亂之後, 似不可行之太驟, 不識尊意云何?”
竹添曰: “我國内人心甚囂, 故借此名以慰其心耳. 朝鮮之貧窶, 敝國知之熟矣. 决無不堪之事. 若使敝國果有貪利之意, 則責彼陵辱我國旗之罪, 以求過當之償, 或求割島嶼亦非難事. 然而我政府之無此心, 弟此百口保之. 抑朝鮮之於我常挾猜疑之心, 以爲曰: ‘今之日本猶是昔日之日本, 而必有奪我土地之心, 又有㩴取我財寳之心.’ 故今日事, 我政府務以公平處之, 治之以萬國之公法. 閣下若疑弟之言, 請待花房與朝鮮結局之日, 以證弟之言不欺.”
忠曰: “既如來教, 則專以優給爲名足矣. 猶憶我國於雲南之役,주 006
각주 006)

英人亦曾調集兵艦, 但結局之時, 惟以爲名耳. 且按之公法, 各國交争, 亦有不給兵費者. 黑海之戰, 俄之求成也, 英·法未曾索給兵備之費, 意大利屢戰屢屈, 亦未甞稍給兵費.주 007이것은 영국 영사관의 서기 마가리(A. R. Margary, 馬嘉理)가 운남(雲南)으로 가던 중 살해된 사건을 말한다. 1874년 6월, 영국은 조사단을 조직하여, 버마를 거쳐 육로로 운남에 들어가서 통상을 위한 준비작업을 하고자 하였다. 조사단의 언어 문제를 위하여, 영국 주중 공사 토마스 프란시스 웨이드(Thomas Francis Wade, 威妥瑪)는 청 총리아문의 허가를 받고 번역관 마가리를 중국-미얀마 경계선으로 보내어 맞이하게 하였는데, 그가 운남 등월(騰越)에서 피살당하는 일이 벌어진다. 이것이 바로 ‘마가리 사건’인데, 일명 ‘운남사건[滇案]’이라고도 한다. 마가리가 지방관에 의해 피살되었는지, 아니면 소수민족이나 다른 야인(野人)에게 피살되었는지는 분명하지 않지만, 영국의 ‘무휼(撫恤)’, ‘배상’, ‘흉수 징벌’의 요구를 받아들여 청은 「연대조약」을 체결하여 의창(宜昌), 무호(蕪湖), 온주(溫 州), 북해(北海) 등 4곳을 통상항구로 추가로 개방하고, 흠차대신(欽差大臣)을 영국에 보내어 ‘사죄’하고, 주영공사(駐英公使)를 맡기로 약속한다. 이때 최초의 주영 주재 공사로 파견된 것이 양무파 관료 곽숭도(郭崇燾)였다.
각주 007)

其戰而屈, 猶且不給兵備之費, 而况貴國以優待與國爲心, 所調兵艦, 專爲保護與國起見. 若藉此有所需索, 弟恐以仁始者, 他國未必不笑其以利終也. 區區之見, 伏希鍳察.”이것은 1853년 10월~1856년 3월 러시아 제국과 오스만 제국, 영국과 프랑스, 이탈리아(사르데냐-피에몬테 왕국)간에 벌어진 전쟁으로, 플로렌스 나이팅게일 같은 간호사가 활약하였으며, 보통 크름(크림) 전쟁이라고도 한다. 러시아는 1771년 흑해를 지배하고 있던 오스만 제국과의 전쟁에서 승리한 이래로 크름반도를 거점 삼아 흑해에서 세력 확대에 나섰다.(남하정책) 크름반도를 확보한 러시아가 이 지역에 요새와 항구를 건설하고 해군을 양성하며 본격적인 남하를 시작하자 영국・프랑스 등이 오스만 제국과 함께 이를 저지하려 하였다. 결국 1853년 7월, 러시아가 오스만에 예속된 도나우강 연안을 공격・점령하는 사태가 벌어지자, 1853년 10월 4일, 오스만 제국은 러시아에 전쟁을 선포하였다. 영국・프랑스는 다음 해 3월 28일, 정식으로 러시아 제국에 선전포고하고 대규모 병력을 파견하였다. 4월 22일, 영・프 해군 연합 함대가 러시아의 흑해 함대를 제압하고, 9월 영・프・오 3국 연합군 20만이 크름반도에 상륙하여 전쟁이 더욱 확산되었다. 1855년 1월에는 이탈리아가 러시아에 선전포고, 연합국에 가담하였다. 1856년이 되자 러시아는 전쟁 수행 의지를 상실하였고, 결국 3월 30일, 파리 강화조약이 체결되면서 전쟁이 끝났다.
竹添曰: “請試畧言敝國人心動摇之故也. 朝鮮人之來敝國者, 敝國待之極優. 客年朝鮮人歐殺我國民三名, 今年又有圍擊京城公使館. 至公使脱至仁川, 仁川府使欺之, 乘其眠, 奪我兵器, 殺我數人矣. 故國人之唱征韓説者, 攘臂而起, 我政府之鎮壓之, 借償金之名, 以慰國人之心, 非有他意也. 所謂軍費者, 海陸兵在内國亦給俸禄, 船艦亦各有經費, 以實算之, 固非多費. 此等事亦係政畧, 其實非自求償起見者. 至其卹銀, 亦决無廹之以難堪之巨費. 以仁始以利終, 尚似未察敝國之情.”
忠曰: “所謂以仁始以利終者, 乃謂外人妄擬之意耳. 至貴國民心, 初聞滋事之起, 自然激於公憤, 假如執事將所探實情歸告政府, 謂亂黨起事, 不徒攻擊使館, 戕殺貴國人民, 而朝鮮臣民均受其禍, 竝且毒及王妃, 國人聞之, 當亦渙然氷釋矣.”
竹添曰: “弟亦畧讀聖賢之書, 知義利之辨. 若使敝國有貪利之心, 則弟亦不爲之航海奔走也. 弟在中國之日, 屢與中堂及諸公言及國事, 弟之所言, 弟自信其不欺, 今回之事, 弟回國報之廟堂, 則渙然氷釋, 盖無疑也. 切請者, 閣下亦以敝國用心之何如, 速禀之中堂. 則弟之幸大矣.”
忠曰: “不日有便, 謹當以此數紙之呈上憲. 但有一事密詢者, 所求之費, 約計多少?”
竹添曰: “不必論多少, 只是以此爲名耳. 速結局, 則敝國不揭此議, 亦不可知.”
忠曰: “可以此紙抄示朝鮮政府乎?”
竹添曰: “可也. 黎公使在東京見人心囂囂, 或抱猜疑, 亦不可知, 雖然至今日, 則信敝國政府之言也. 貴政府亦以海路阻絶, 或有疑於敝國, 亦不可知. 請閣下以其所見, 竝弟之所言, 以解其疑心, 則兩國之幸也.”
忠曰: “謹當如教, 函致黎蒓齋, 至轉報我國總署, 此乃弟分内之事耳.”
竹添曰: “朝鮮若再有暴舉, 則弟之言亦畫餅矣.”
忠曰: “弟已諄諄言於朝鮮政府, 貴國兵至, 當以鎮壓爲先務, 不至復有意外事也.”
별지: 「十一日七㸃鐘, 至仁川府署與日使花房義質問答節略」: 必使朝鮮國王自主, 日韓之議始不成空談, 中國出兵懲辦亂黨, 惟欲朝鮮保有其國, 不失寸土.
13) 「十一日七㸃鐘, 至仁川府署與日使花房義質問答節略」.
忠曰: “君在王京議事, 其大旨已聞之近籘矣. 第原委可詳示否?”
花房曰: “本月初三日, 余率兵隊前至楊花津, 朝鮮政府派員至津口, 阻我入城. 余以城外議事不便, 逕行入城, 即奏請國王訂引見期, 韓人又固固不從. 直至初七日, 始見國王, 進呈摺子七款, 請派員相議, 於三日内回復. 國王當派首相洪純穆爲議事全權大官, 乃至初八日接洪相來函, 謂: “復派令往勘山陵吉地, 須三四日後方可回京.’ 且云: ‘山陵爲朝鮮重事, 我國之款當俟歸時再議.’ 夫國王明知限期三日, 當面派定洪相爲議事全權大官, 而初八日猝將所派之人差往他處, 豈非自相矛盾? 且以其國山陵爲重, 是明明以吾國之事爲輕矣. 彼既絶我商辦之路, 故余俟限滿, 即將此意奏明國王出京矣.”
忠曰: “初七日君亦既見大院君矣. 大院君爲何官執事, 亦甞面詢之乎?”
花房曰: “彼言雖無指名官職, 然國政亦可参預.”
忠曰: “君想國王願修和好否? 金宏集等諸人意指何如?”
花房曰: “國王精明願修和好, 金宏集等雖爲講修官, 實無權議事. 彼甞密語近藤, 謂: ‘該國近事, 實堪痛哭’.”
忠曰: “然則自君視之, 亦知其國王甚欲與貴公使議事, 大小臣工亦同此意, 徒以有志未逮, 致成此局. 君謂: ‘朝鮮尚有政府乎?’ 猶憶前在舟中, 語君以朝鮮事勢, 必以能使國王自主爲先務, 國王一日不能自主, 他國即一日不可與之議事. 以主議者非執政之人也. 証之公法, 則土爾其, 埃及每有乱党殺傷各國之人之事, 各國必俟其君能自主, 乃與計議. 吾已四面探訪, 知國王諸事不得與聞, 即如君前瀕行呈奏國王一摺, 國王尚未及見, 已有他人拆封示我矣.”
花房曰: “此人必大院君也.”
忠曰: “何必説明. 昨接君函謂: ‘凾欲候晤, 以朝鮮政府絶我商辦之路, 不得久留爲歉.’ 云云. 今我來此, 非爲朝鮮居間調停, 不過與君言明朝鮮事勢, 勢俾君免至錯認題目耳. 朝鮮國王現既不能自主, 而貴公使貿貿然與之議事, 無論所論不成, 即令已有成議, 他日國王自主, 則所議者, 仍屬空談, 且若於此時與之决裂, 則將來恐不獨朝鮮有所借口. 吾國此次以兵前來, 惟在惩辦乱黨, 貴國政府想亦聞知, 君倘不審可否, 亟與亂党定議, 吾恐日後自此多事矣. 故吾不得不先爲言之.”
花房曰: “貴國兵來, 原爲惩辦亂党, 吾亦深信不疑. 顧吾水陸軍弁皆謂: ‘貴國調兵來此, 藉以生釁, 否則乘機奪取朝鮮?’云云.”
忠曰: “余亦頗聞之矣. 軍士無知, 其疑何足深怪. 吾國軍士亦有謂: ‘調兵來此, 將爲與貴國搆衅之故’, 且謂: ‘盛京亦調兵,주 008
각주 008)

入朝鮮境, 以助後路.’ 此皆傳聞失實, 即使盛京調兵境上, 亦惟以防亂而已. 至論奪取朝鮮土地, 則吾可决吾政府之必無是心. 吾政府之意不過欲朝鮮保有其國, 不失寸土, 且願其内政, 外交得以自主耳.”성경(盛京)은 후금(後金)과 청(淸)의 도성으로 오늘날의 요녕성(遼寧省) 선양시(瀋陽市)이다. 1625년 태조 누르하치가 도성을 이곳으로 옮겨 황성을 건설하기 시작하였고, 1634년 태종 홍타이지(皇太極)가 성경이라 이름을 바꾸었다. 순치 원년(1644) 북경으로 수도를 옮김에 따라 성경은 유도(留都) 또는 배도(陪都)가 되었다. 호(戶)・예(禮)・병(兵)・형(刑)・공(工) 등의 5部 및 각부 시랑(侍郞), 총관(總管)인 내대신(內大臣, 乾隆 12년 盛京將軍으로, 光 緖 33년 奉天巡撫로 바뀌었다.)을 두어 유수(留守)하게 하였으며, 봉천(奉天)이라는 이름도 추가되었다.
花房曰: “吾政府之意, 亦願朝鮮内政得以自主, 且吾亦奉命矣. 但此事甚難, 不知君擬如何辦理.”
忠曰: “吾軍方至, 未能猝然定計.”
花房曰: “意或以力取乎?”
忠曰: “吾軍之來, 不過衛身耳. 亦猶貴國調兵來此之意, 倘或未能計賺, 則不得已當以力取耳.”
花房曰: “若需力取, 吾軍亦可相助.”
忠曰: “此事未必至於用力, 萬一有然, 屆時再當與君熟商耳.”
별지: 「十二日九㸃鐘, 花房偕近籐至花島來訪問答節畧」: 日本與朝鮮爲與國, 不應攙越其內政, 中國若有擧動, 不過欲朝鮮國王得以自主.
14) 「十二日九㸃鐘, 花房偕近籐至花島來訪問答節畧」.주 009
花房曰: “昨勞君遠道相訪, 議談我國之事, 甚感.”
忠曰: “此行相訪, 專欲言明朝鮮國勢, 以爲後日辦理地步耳. 但貴公使現在有何主意?”
花房曰: “尚在仁川守候二三日, 若朝鮮政府不派大員來此相商, 則以後事亦難言矣.”
忠曰: “昨已與君言明朝鮮政府有名無實, 即派大員亦無事權議事, 若因此决裂, 豈非乘人之亂耶?”
花房曰: “朝鮮若無政府, 則勢必更其内政, 若猶不可, 必至以兵戎從事. 敢問吾國出此, 他國有何阻難乎?”
忠曰: “貴國與朝鮮爲與國, 未便攙越内政, 予已前言之矣. 若以兵戎從事, 他國有否阻難, 是在其國與朝鮮所繫何如耳.”
花房曰: “然則, 貴國將變更朝鮮内政乎?”
忠曰: 若“有舉動, 不過還其固有, 令國王得以自主, 不得謂之變更耳. 若朝鮮政府終不派員商議, 究竟貴公使尚住幾日?”
花房曰: “不過三四日.”
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각주 001)
여기서 마건충이 조정에 보고한 내용에서는 대원군이 사절이나 편지를 보내 연락을 주고받았다는 점이 철저하게 서술・보고에서 배제되어 있다. 이것은 이와 관련된 부분을 번역・정리한 연구와 비교해 보면 아주 두드러지게 나타나는데,[岡本隆司, 『馬建忠の中國近代』(京都大學出版會, 2007)의 第II部 6章 「東行三錄」, pp.87-164를 참조] 이를테면 조영하・김홍집이 마건충을 만났을 때 대원군이 보낸 편지를 전달하였는데, 이 보고에서는 그런 부분이 전혀 언급되어 있지 않다. 대원군이 그와 연락한 다른 경우도 마찬가지로 이 보고는 생략하고 있는 것으로 보아, 대원군을 반란의 주동자, 수괴로 몰아 아예 협상・논의의 대상에서 제외하고, 임오군란 이후 조선의 정국에 대한 청조의 정책을 관철하려는 의도에서 이런 방향으로 몰고 가려 하였던 것으로 볼 수 있을 것이다. 대원군의 배제에 대해서는 또한 국왕이나 민씨 척족, 그리고 김윤식, 어윤중, 김홍집 등 개화파 역시 마찬가지의 입장이었을 것이다.
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각주 002)
간행이정(間行里程)은 강화도조약 이후 일본인들의 개항장에서의 자유통행과 상업행위를 인정한 활동 구역을 말하는데, 1876년 강화도조약(조일수호조규) 이후 8월 24일에 조인된 「조일수호조규부록」 제4조에 의하면 일본인들의 활동 지역은 방파제로부터 동서남북 각 지름 10리로 한정되었다. 1882년 8월 30일에 조인된 「조일수호조규속약」에서 간행이정을 사방 50리로 확대하기로 하고, 2년 후에 다시 100리로 확대할 것을 약정하였으나, 1883년 「조일통상장정(朝日通商章程)」이 체결되면서 대폭 간행이정이 확장되고 위법자에 대해서는 일본의 치외법권을 적용하는 협약이 1883년 7월 25일 체결되었다.(「인천・원산・부산 세 항구에서의 일본인 활동 범위에 관한 약정」)
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각주 003)
‘金玉均’은 아마 ‘金允植’을 마건충이 착각한 것으로 보인다. 마건충은 하나부사 요시모토가 돌아가고 어윤중(마건충은 金允中으로 기록하고 있다)이 다시 왔는데, 조선 관원은 두 명이 함께였고, 한 명은 교리(校理) 김옥균(金玉均), 다른 한 명은 사관(史館) 기주(記注) 서광범(徐光範)이었다고 기록하고 있다. 이들은 일본에 있다가 국란 소식을 듣고 花房義質과 함께 돌아왔으며, 마건충은 이들과 오래 이야기를 나누었다고 기록하고 있다. 馬建忠, 「東行三錄」, 「適可齋記行 卷六」, 王夢珂 點校, 『馬建忠集』(中華書局, 2013), p.177.
- 각주 004)
- 각주 005)
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각주 006)
이것은 영국 영사관의 서기 마가리(A. R. Margary, 馬嘉理)가 운남(雲南)으로 가던 중 살해된 사건을 말한다. 1874년 6월, 영국은 조사단을 조직하여, 버마를 거쳐 육로로 운남에 들어가서 통상을 위한 준비작업을 하고자 하였다. 조사단의 언어 문제를 위하여, 영국 주중 공사 토마스 프란시스 웨이드(Thomas Francis Wade, 威妥瑪)는 청 총리아문의 허가를 받고 번역관 마가리를 중국-미얀마 경계선으로 보내어 맞이하게 하였는데, 그가 운남 등월(騰越)에서 피살당하는 일이 벌어진다. 이것이 바로 ‘마가리 사건’인데, 일명 ‘운남사건[滇案]’이라고도 한다. 마가리가 지방관에 의해 피살되었는지, 아니면 소수민족이나 다른 야인(野人)에게 피살되었는지는 분명하지 않지만, 영국의 ‘무휼(撫恤)’, ‘배상’, ‘흉수 징벌’의 요구를 받아들여 청은 「연대조약」을 체결하여 의창(宜昌), 무호(蕪湖), 온주(溫 州), 북해(北海) 등 4곳을 통상항구로 추가로 개방하고, 흠차대신(欽差大臣)을 영국에 보내어 ‘사죄’하고, 주영공사(駐英公使)를 맡기로 약속한다. 이때 최초의 주영 주재 공사로 파견된 것이 양무파 관료 곽숭도(郭崇燾)였다.
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각주 007)
이것은 1853년 10월~1856년 3월 러시아 제국과 오스만 제국, 영국과 프랑스, 이탈리아(사르데냐-피에몬테 왕국)간에 벌어진 전쟁으로, 플로렌스 나이팅게일 같은 간호사가 활약하였으며, 보통 크름(크림) 전쟁이라고도 한다. 러시아는 1771년 흑해를 지배하고 있던 오스만 제국과의 전쟁에서 승리한 이래로 크름반도를 거점 삼아 흑해에서 세력 확대에 나섰다.(남하정책) 크름반도를 확보한 러시아가 이 지역에 요새와 항구를 건설하고 해군을 양성하며 본격적인 남하를 시작하자 영국・프랑스 등이 오스만 제국과 함께 이를 저지하려 하였다. 결국 1853년 7월, 러시아가 오스만에 예속된 도나우강 연안을 공격・점령하는 사태가 벌어지자, 1853년 10월 4일, 오스만 제국은 러시아에 전쟁을 선포하였다. 영국・프랑스는 다음 해 3월 28일, 정식으로 러시아 제국에 선전포고하고 대규모 병력을 파견하였다. 4월 22일, 영・프 해군 연합 함대가 러시아의 흑해 함대를 제압하고, 9월 영・프・오 3국 연합군 20만이 크름반도에 상륙하여 전쟁이 더욱 확산되었다. 1855년 1월에는 이탈리아가 러시아에 선전포고, 연합국에 가담하였다. 1856년이 되자 러시아는 전쟁 수행 의지를 상실하였고, 결국 3월 30일, 파리 강화조약이 체결되면서 전쟁이 끝났다.
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각주 008)
성경(盛京)은 후금(後金)과 청(淸)의 도성으로 오늘날의 요녕성(遼寧省) 선양시(瀋陽市)이다. 1625년 태조 누르하치가 도성을 이곳으로 옮겨 황성을 건설하기 시작하였고, 1634년 태종 홍타이지(皇太極)가 성경이라 이름을 바꾸었다. 순치 원년(1644) 북경으로 수도를 옮김에 따라 성경은 유도(留都) 또는 배도(陪都)가 되었다. 호(戶)・예(禮)・병(兵)・형(刑)・공(工) 등의 5部 및 각부 시랑(侍郞), 총관(總管)인 내대신(內大臣, 乾隆 12년 盛京將軍으로, 光 緖 33년 奉天巡撫로 바뀌었다.)을 두어 유수(留守)하게 하였으며, 봉천(奉天)이라는 이름도 추가되었다.
- 각주 009)
색인어
- 이름
- 張樹聲, 李昰應, 李昰應, 趙甯夏, 金宏集, 李昰應, 花房義質, 潘靑照, 李昰筆, 潘靑照, 建忠, 花房, 花房, 建忠, 花房義質, 花房, 趙甯夏, 金宏集, 趙甯夏, 花房, 尹成鎮, 近籐真鋤, 花房, 花房, 花房, 花房, 花房, 李裕元, 鄭顯德, 李載完, 趙秉昌, 姜淺, 韓章錫, 李建昌, 載冕, 趙甯夏, 金宏集, 趙甯夏, 花房, 花房, 花房, 花房, 魚允中, 花房, 岩倉, 井上, 竹添進一郎, 花房, 黎蒓齋, 花房義質, 近籘, 洪純穆, 花房
- 지명
- 元山, 釡山, 仁川, 楊花鎮, 咸興, 大坵, 仁川, 仁川, 泰西, 枉尋里, 枉尋, 枉尋, 利泰, 南陽, 南陽, 仁川, 東京, 楊花津, 土爾其, 埃及, 花島
