• 高句麗と渤海
  • 徳興里壁画古墳
狩人 02
Title狩人 02
前室東壁天井の狩猟図の狩人 02
zoom

徳興里壁画古墳の前室東壁の天井に描かれた、狩猟図壁画の人物詳細図である。画面に見えている馬に乗った武士は、振り向きざまに後ろから駆けてくる鹿に向けて弓を引き絞っているところである。興味深い事実は、馬も武士と同じく後ろを振り向きながら走っているという点である。このような姿勢の弓術は、紀元前3世紀頃の中央アジアの遊牧民族であるパルティアで流行していたもので、「パルティアンショット」と呼ばれている。
高句麗の弓は「貊弓」と呼ばれたが、中国人も手に入れたがった非常に有名な弓だった。貊弓はマユミなどで作られた木弓ではなく、牛や水牛などの動物の角を使って作られた角弓の一種であり、記録によると千歩を飛ぶといわれるほど性能に優れていた。
武士の頭は頭巾(古代の帽子の一種で、布地で頭全体を覆い後方で結んだ)で覆われている。一般に頭巾は身分の低い者たちがかぶった帽子であったが、武官たちも野外活動をする際には活動性に優れた頭巾を着用した。服飾は襈(鶴や丹頂鶴の翼の先や首の部分の黒い羽毛を模倣した衣服の様式で、シベリア・シャーマニズムの影響と思われる)があてられたチョゴリに、活動性に優れた幅の狭いパジ(ズボンに似た下衣)である窮袴を着用している。窮袴も身分の低い者たちが主に着用したパジであるが、乗馬や戦闘のように機動性が要求される場合には窮袴を着用した。
高句麗人はこのような狩猟活動を通して乗馬と弓術の技術を日常的に磨いていたが、このようにして訓練された騎馬術と弓術は戦闘で大きく猛威をふるった。高句麗が一時期ではあるが、中国の東北地域から朝鮮半島南部に至るまでの広大な領土を誇ることができたのは、高句麗人の日常生活に溶け込んだ尚武の気風が最大の原因として作用したはずである。

페이지 상단으로 이동하기