Title | 狩人 03 | ||
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徳興里壁画古墳の前室東壁の天井に描かれた、狩猟図壁画の人物詳細図である。画面に見えている馬に乗った武士は、目の前に逃げていく黒い猪に向けて弓を引き絞っているところである。高句麗の弓は「貊弓」と呼ばれたが、中国人も手に入れたがった非常に有名な弓だった。貊弓はマユミ(檀木)で作られた木弓ではなく、牛や水牛などの動物の角を使って作られた角弓の一種で、記録によると千歩を飛ぶといわれるほど性能に優れていた。矢先は尖ったもの以外に平たいものも使われたが、後者は斧の刃のような形で相手により大きな打撃を与えた。高句麗の武士は狩りの際に矢先が平たい斧型の矢先を主に使用したが、これは虎や猪など体が大きく力が強い猛獣を狩るのに適している。
武士の頭は頭巾(古代の帽子の一種で、布地で頭全体を覆い後方で結んだ)で覆われている。一般に頭巾は身分の低い者たちがかぶった帽子であったが、武官たちも野外活動をする際には活動性に優れた頭巾を着用した。服飾は襈(鶴や丹頂鶴の翼の先や首の部分の黒い羽毛を模倣した衣服の様式で、シベリア・シャーマニズムの影響と思われる)があてられたチョゴリに、活動性に優れた幅の狭いパジ(ズボンに似た下衣)である窮袴を着用している。窮袴も身分の低い者たちが主に着用したパジであるが、乗馬や戦闘のように機動性が要求される場合には窮袴を着用した。馬は足を前後に大きく広げて獲物を追いかけていく、力強い姿で描写されている。このような馬の姿勢は解剖学的には不可能であるが、追いつ追われつする瞬間の緊迫感がよく表現されている。
高句麗人はこのような狩猟活動を通して乗馬と弓術の技術を日常的に磨いていたが、このようにして訓練された騎馬術と弓術は戦闘で大きく猛威をふるった。高句麗が一時期ではあるが、中国の東北地域から朝鮮半島南部に至るまでの広大な領土を誇ることができたのは、高句麗人の日常生活に溶け込んだ尚武の気風が最大の原因として作用したはずである。